もうだいぶ以前になる。少しご縁のある禅文化研究会の行事や勉強会に、何度か参加した。その時に初めて、妙心寺退蔵院の松山大耕副住職のご講話を拝聴した。
少し早く到着したその会場の入り口には、若い女性が何人か待ち受けていて、副住職がお入りになると芸能人を追いかけているような恰好で目線を送っておられた。そんな中を空気のようにすーっとお進みになったお姿が、そのまあるいお背中が忘れられない。後から詳しい方が、「ファンが多くて、あんな風にお出迎えがあるんですよ」と教えて下さった。新鮮な出来事だった。
ご講話は大変印象的で、会場にいた皆がお話しに惹きつけられていた。小さい頃からの生い立ちに始まり、東京大学大学院を修了されて後、埼玉県の平林寺にて三年半の御修行を積まれた様子を語られた。
その御修行を終えてから京都の妙心寺までお帰りになる際、ただひたすらに徒歩で向かわれたという。何のアポイントもないその道中で、お泊めいただいた寺院で感じた人の心の温かさ、風呂場で溢れた涙、歩くたびに目に映る景色、頭で思ったこと、心で感じたこと、様々なことを多くの視点で述べられた。実体験による真実の話しだった。
昨年の淡交11月号に、「禅のこころ」と題して御執筆された文章を再び読んでいた。禅の特徴として、二つのことを書かれている。
一つは、「禅」という漢字そのものが「禅」のシンプルさを示していること。もう一つは、「禅」は実践体験を重んじるということ。
一つ目について、「示(しめすへん)」に「単」と書く「禅」という文字が、禅の「単」つまりシンプルさを示していると説く。東南アジアのきらびやかな寺院の姿に対して、禅寺の簡素な建築を対比させる。禅寺の石庭も、白砂や石、苔でシンプルに構成されている。禅僧になる為の修行中に頂く一汁一菜のお食事、麦ご飯、お味噌汁、野菜のおかず一品とたくあんも、大変質素なものである。そして坐禅は、これらの究極系であり、姿勢と呼吸を正して心を整える。人間が生きるために必要な、生まれてから死ぬまで淡々と続けている呼吸から、人をつくる。全てがシンプルに存在することを、おっしゃっておられる。
二つ目の、禅は実践体験を重んじることについて、聖書の内容を重視しているキリスト教に対し、禅では実践体験からのその人の学びを大切にしていると説く。今ここで頂いたお茶の味をどんなに言葉で説明しても、飲まなければその味はわからない。世界中に禅の本は何十万冊とあってそれを読んでも、たくさんの素晴らしいお坊さんからお話を伺っても、お釈迦様の悟りの境地を絶対に知ることはできない。厳しい修行を通して実体験の中からその学びを体得することが、禅の在り方だと言及される。
最後に、茶と禅の繋がりに触れ、各家元と禅僧の関係性を示される。そしてご自身が師事した平林寺野々村玄龍老師の貴重なお言葉「禅は知識ではない。事実実際にその教えを実践して初めてその価値が生まれる」という教えを記し、茶の湯者も自らを省みることが必要であると結ぶ。
本当に茶の湯も同じであると思う。学びのキーワードである、道(心)学(知識)実(実践力)全て、テキストで学べるものはベースにあるとしても、その場の体験の中で体得し、更にまたそれを実践して初めて意味を成す。ありのままの自然体で自己研鑽を積みながら、考え続けていきたいと思う。
令和6年8月21日 畑中香名子


